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2002、私の「表現」。 『Home Sweet Home』 (下線部分は、関連する文章へのリンクになっています) 平安って?平和って、何でしょうか? 争いがなく、ぶつかり合いがないこと? たとえば。地球の歴史に争いがなかったら。 想うことは 憎むことは なかったかもしれない。 みんなよく、揺れ動きます。 人を憎んだり。死にたくなったり。叫んだり。泣いたり。 自分の中に他の自分の存在を感じてみたりすることも、 自分を 他人を 傷つけてみたくなることも、ある。 それは、一生、続くのです。 名前を付けてるのを見たことがなくても。 ふつうの大人の左うでに、キズがあるのを見たことがなくても。 あるいは、お酒の席と普通の時だったり。 恋人だけに見せる自分、友達だけに見せる自分。 浮気の時だけに、夜遊びの時だけに見せる、自分。 カッターがタバコに、お酒になる。それだけ。 なら、安定って?心の平安って、なんなんだろう。 いつになったら、やってくるんだろう。 青い鳥の芝居のように、私たちのすぐとなりに。 それは、自分が、みんながいろいろな情報や人、風潮、感情に動かされて、 ぶつかっていくことを、苦しむことを、喜ぶことを。 素直に認める瞬間だと思うのです。 多重人格だって言う人。 忍。満。凪。葵。いろいろな自分が居る、っていう人。 自分の腕を切って落ち着く人。 マンガやドラマ、雑誌やインターネットで取り上げられているから、 そういう形で、私たちの世代にはあらわれているけれど。 今までの時代では「多重人格」「もう一人の自分」は、 小説の登場人物と自分を混同してしまうことだったかもしれないし、 ヒミツの日記で妄想に浸ることだったかもしれない。 腕を切ることは、シンナーや暴力だったかもしれない。 程度の差こそあれ、ある程度、「もう一人の自分」の存在を感じているんじゃないかと思います。 それを思い切り発散できる場所をもとめて、演じること、つくることをしている。 そんな気が、します。 多重人格するのか。 おクスリもらうのか。 人をだますのか。 芝居をするのか。 日記を書くのか。 なりきり小説を書くのか。 名前を変えてチャットするのか。 腕を切るのか。 愚痴を言うのか。 お酒を飲むのか。 麻薬をやるのか。 SEXするのか。 運動するのか。 本を読むのか。 寝るのか。 遊びに行くのか。 カラオケするのか。 今、あなたのしていること。したいこと。 「今のあなた」には必ず、Reason、 ねっこ、がある。 なぜ、表現をしたがるのか? なぜ、人に見てもらいたいと思うのか? なぜ、人と関わりたいと思うのか? なぜ、生きてきたのか? なぜ、誰かといっしょにいるのか? なぜ、親とケンカした? なぜ、この想いは曲げられないのか? たくさんの枝を描くことができる。 それは、意識する、しないにかかわらず。 すべてあなたの身体と心のあらわれ。「表現」と言える。 それを考えることで、 友達は。恋人は。あの作家は、歌手は、お父さんは、お母さんは、先生は。 今の若い人たちは。あのちっちゃな子は。 この歴史の教科書は、この手紙は、好きになれないアイツは。 何をねっこに持っているか、が分かるようになるかもしれない。 部活をする人。やめる人。「芝居が好き」だったり。 ポスターの色は黒がいいと言う人。青がいいと言う人。「企画を成功させたい」だったり。 泣いている子と一緒に泣く子、腕を引っ張って外に連れ出そうとする子 「はやく元気になって」だったり。 穏やかだと、言えると思うのです。 多重人格な人たちに、そんなのウソで、バカらしいと言いたいわけでもない。 「リストカッター同士じゃないと、この苦しみはわかんないよ」 「多重だから……DIDのコミュニティで」 それ以外の所にも、同じねっこをもつ人は、いるよ。 「腕切ってるなんてヘン」 「マンガの真似なんかしてバカみたい」 そう思っても、ねっこの重なりは、あるよ。 そこから、ねっこの重なりを見つけてゆきたい。 状況が変わるわけでも、意見が変わるわけでもないかもしれない。 けれど、立ち止まって、おだやかになれるキッカケを作りたい。 みんなちがう、ということは、 その点に置いて、みんなが同じであるということ。 ふっと振り返ると、穏やかになれる。 この穏やかさを感じる瞬間があったら。 何かが変わる、とは思わないけれど。 ただ、帰る場所がある、という安心感だけは持てたのではという気がするのです。 苦しかったり辛かったりで、立ち止まって振り返ることができなくなるかもしれません。 これからの私も。 立ち止まれるように。 ねっこを見つめられるように。 わたしのからだとこころで、何でも出来るはずのわたしが、 ヒトに、自分に、 一体どれくらいのことが出来るのか、試しながら。 「表現」してゆきたいと思っているのです。 |