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演劇コラムより。 私は現在、高校生である。「キレやすい十七歳」のジョシコーセーだ。家族は二人。母子家庭である。私がこれからお話しするのは、十四歳の頃のことについて。お題は「リストカット」である。 私が中学生のころといえば、酒鬼薔薇事件、キレる十七歳。少年犯罪と精神鑑定がマスコミを賑わせていた。責任という名のボールがキョーイクやシャカイやカテイの間を楽しそうに飛び回って、いつのまにか消えていった。 犯罪や非行のニュースが流れるたびに母は、「まったく、訳が分からない。本当に怖い、怖いねえ」と言った。人を殺すことやキレることが理解できないと言うのだ。私はそれに「そうねえ」と相づちを打ちながらも、心の中では彼らに同族意識すら感じていた。何故なら私にとってココロの病というものはコミックや小説、ドラマなどで慣れ親しんでいたものだったから。 狂気というのは、皆にあるものだと思っていた。人を殺したり、訳の分からないことを叫んだり。刃物を持ち歩いたりするのも理解できる行動だった。そして白状しよう。私はそれをちょっとカッコイイと思っていた。殺意、狂気、自傷、多重人格。これらは十四歳の私にとって魅力的だった。狂うこと、異常者になること。「わたしにもできるわ」と思っていた。そしてそれを、実行していた。 朝起きて、ウインナーと卵、そしてプリンを食べて制服に着替える。シャツ、スカート、ブレザー、リボン。ポケットには家の鍵と自転車の鍵、そしてカッターを入れていた。 百円ショップのちゃちなカッターで、刃を止めておく部品にはヒビが入っていた。いつ刃が出てくるか分からない状態だったのだ。スカートのポケットを破いて、太股を切り裂くかもしれない。ドキドキしていた。血が出るのかしら?傷跡が残るのかしら?自分がテレビで騒がれている異常者の仲間入りをしたような快感を、十四歳の私は隠しきれなかった。 学校のだれもいない階段で、そっと刃先をなぞってみる。指で、くちびるで、舌で。指先に赤い筋が出来ると、傷口を爪で開いて血がまあるく溜まるまで待った。そして、うっとりと舐めとった。 先生に見つかってたしなめられることもあったが、いつも軽くかわしていた。友人が、教師が、腫れ物のように私を扱う。とまどったような哀れむような、心配そうな視線を向けて、私をいたわったり、見下したりした。 最初は手首にうっすらとひっかき傷のようなものを一筋つけるだけだった。次第に慣れてくると、それを幾筋も繰り返した。私の左手首の皮膚はいつでもささくれだって、赤黒いかさぶたが出来るようになっていた。夏はあまりやらなかった。半袖で腕が露出するので、母に見つかってしまうからだ。けれどどうしてもやりたいときは冷房を20度ほどにして部屋を冷やし、長袖のジャケットを羽織って傷を隠した。 冬になって、新しいカッターを手に入れた。新しい刃先は切れ味が良く、深く切れた。このころになると切り方のこつを覚え、切った瞬間にピンク色の肉が見えるようにすることが出来た。そこから血が出てくる。ティッシュが赤く染まる。一枚、二枚。まだ足りない。もっと、もっと。ところどころ赤く固まったそれらは見つからないように、トイレに流した。 私がリストカットをしていることが少しずつ知られて行くと、そのスジの友人が何人か出来た。自分もやっているという後輩もやって来た。精神科に通っているという子や、自分は多重人格だと主張して、会うたびに違う名前を名乗るような友人もできた。 彼らと話をするうちに、様々なことが分かってきた。話をするうちにと言うよりは、観察するうちにと言った方が的確かもしれない。私は彼らを、そして自分を観察するようになっていた。 彼らは、自分を理解できるものはいないと言っていた。彼らは、偽善者という言葉をよく使った。サイコという漫画や、由貴香織里という漫画家の作品が好きだった。血が好きだった。ビジュアル系のバンドか、cocco、椎名林檎を愛し、SPEEDなどの明るい歌を下らないと笑った。彼らは刃物を持ち歩くのが好きだった。彼らは向精神薬をカッコイイと思っていた。学校という管理空間が嫌いで、制服すら憎んでいた。教師が嫌いだった。親が嫌いだった。大人が嫌いだった。そして私は、彼らの仲間だった。私のオリジナルであるはずの感情が、嗜好が、そっくりそのままそこに在った。 その共通性に気づいた時、私は寒気がした。彼らは、私は、制服や教育を「普通の子生産工場」だと思って憎んできたけれど、気がつけば私たちは「変わった子」という型から量産された商品になっていた。どうしてだろう。そもそもこの型は何処から来たのだろう。私はインターネットを使って調べてみた。私の知っている範囲以外でも、このスタンダードは成立しているのだろうか。調べてみたら、アタリだった。みんなcoccoが好きだった。自称多重人格者の十代に多い名前は「凪」「陶子」「忍」「葵」。リストカットをしている子のホームページは背景が黒か白のモノトーンで、アクセントに赤。刃物か薬の写真。「其れ」「此処」「厭」「アタシ」。椎名林檎の歌から取った言葉遣いをみんながしていた。 くだらない。なんてくだらないんだろう。私がそう思ったときには、二人が学校を辞めて、精神科に入院した。ひとりは手首を切った傷が深く、病院に運ばれた。多重人格を自称していた子は、記憶が飛ぶようになっていった。本当の解離性人格障害ならば、記憶が飛んでいる期間のあとに、お互いの存在を認識するようになるはずなのに。けれどしかたがない。漫画では互いの人格の確執のみが描かれていたのだから。 多重人格を名乗っていた一つ年下のその子は、私の一番の友人だった。 皆が流されていった。自分という存在ではなく、「正常」「異常」「健康」「病気」という名前で振り分けられていった。学校では「あの人○○だったんでしょ?」「学校辞めたよね。○○じゃあね」という声が聞こえた。彼らはもう、彼らそのもので語られることはなかった。彼らは○○だった。それだけだった。 私は、嫌だった。なるほど私はリストカッターかもしれなかった。中学生であったかもしれないし、女だったかもしれない。それらは確かに私の構成要素だったけれど、それは絶対に私の全体を表すものではなかった。自分を名前で規定したくはなかった。規定されたくも無かった。 強くなろうと思った。「○○である自分」に安心することは簡単だと言うことが、すこしずつ分かってきた。中学生ならば失敗は許される。病人ならばいたわってもらえる。異常者ならば気にかけてもらえる。自分は規定されることで守られていたと、また、自分を守るために自分を変わった子という名前で規定してきたのだと知った。 私は十七歳になった。腕を切ることが完全になくなったとは言わない。何か心が壊れそうになったときには、また自傷行為に走るのかもしれない。もしかしたら自傷ではなく鬱かもしれないし、パニック症状かもしれない。男性ととっかえひっかえ、交わるかもしれない。もしその暴走した力が他人に向けば、いじめや暴力として現れるかもしれない。 けれど私は強くなった。今私は、リストカットに溺れていた頃の私に問いかけたい。「親の七光りという言葉があるけれど、あなたはどうだろう?あなたは自分が影のようなものをひきずりながら必死で生きていると思っているけれど、その影は借り物じゃないのかな?」と。 そしてあの頃の私は、まだまだたくさんいる。インターネットに、身近な後輩に。 ちゃんと、自分の存在で立っていますか?その光は自分のものですか?その影は自分のものですか? 私はこの問いかけを続けたい。あの頃の私に。そして、今の自分に。そうすれば最期には後悔無く微笑えるような気がしてならないのである。 |