*欲しい商売(2001/04/14)

私が将来的に芝居をやることになったら、ぜひ欲しいスペシャリストが居る。

『風師』である。

いや、そんな商売というかスペシャリスト、聞いたこともないぞと思われるだろうが、私はマジである。マジで、『風師』が欲しいのだ。

今日は自転車でとあるレストランに行ったのだが、風が強かった。油断すると息もできなくなるくらいに、強く、強く吹き付けてきた。そして思った。『舞台にもこんな風を起こしたい!!』

そりゃぁ、私の書く脚本とか、言葉とか、あとは役者さんの動きとかで観客の心に風を起こせたら最高なのだが、そう言う意味ではなくて、ほんとうに客席に、劇場に、風を吹かせたいと思ったのだ。

役者が舞台に立つ。ただ前を見て立つ。
それだけで感動を起こすことももちろんあるだろうが、
私はそこに『風』が欲しいのだ。

抽象的な意味とか、理屈とかではないのだ。
『必志組』にいる役者の中に、風の中で立つのが似合うひとがいるのだ。
めっちゃくちゃわがままに、ただ、風が欲しいのだ。

吹きすさぶ風の中、抵抗するわけでもなく、
過度に流されるわけでもなく、
生物として自然な、三半規管のバランスにのっとって。
風を受けながら、ただ前を見る。

台詞なんか書きたくないのである。
この感動的な情景を、言葉などで汚したくはない---------------
そう思わせるほどの力をそのシーンは持つであろうと、
私は確信を持っている。

『風師』。

是非欲しい人材である。

*ト書きに思いをはせる(2001/04/17)

圭一   邪魔なんだよ。
シンゴ  ミーコ、何だよコイツ!
ミーコ  ・・・・・・
シンゴ  逃げなくていいのかよ!
圭一   さっきからギャーギャー鳴きやがって。春だからか!?あぁ?(二匹を蹴る)
シンゴ  ・・・お前、なんで言ってくれなかったんだよ!
ミーコ  (かばいながら)・・・・・・シンゴ。

   シンゴ、一瞬動きを止める。
   そして、振り返り振り返りしながら、去る。
   圭一、息を荒くしたまま無言で立ち続ける
   散乱した本やCDを蹴散らしながら、
   椅子に、戻る。

ミーコ  ・・・・・・・・・・・。

   ミーコ、無言で圭一にすり寄る。
   圭一は再び音楽を聴き始める。
   圭一の膝にミーコはもたれかかり、
   時間が、過ぎる。
   いつのまにか圭一は眠り、
   ミーコはそっと立ち上がる。
   ゆっくりとドアを開け、ドアをくぐる。
   音楽、小さくなる。
   そして一度振り返ると、走り出す。
   舞台薄暗くなっていき、音楽も遠くへ消える。
   
   そして、薄明かりのゴミ置き場。
   なにやら物音がする

シンゴ  ・・・・ってー!・・・ちっくしょお・・・・・・

   足音。
   薄暗い中、シンゴ構える。

シンゴ  誰だ?
ミーコ  あたしよ。

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これは、『神様、あなたに会いたくなった』の、一部である。

見て分かるとおり、ト書きが長い。少なくとも私の書いてきたものの中では、相当長い。私は今まで、ト書きを避けてきた。何故かというと、それが理解されないことの方が多いからである。中学校の演劇部、場合によっては高校もだが、脚本を読み慣れていない場合が多いし、動作だけで全てを表現するような情景に出会うことも少ない。

けれど、中学生向け(に、限らないが、中学生が読んでも絶対に分かるライン)を考えたにもかかわらず、今回は書いた。

何故か?

インターネットという方法上、私が様々な中学演劇部を回り、動作のみで表現する方法のすばらしさを語って、ビデオをいっぱい持ってゆくというのは考えにくい。ならばどうするか?である。

答は簡単。書くのである。

可能な限り細かく、動作だけで表現される情景を書くのである。
私はつい最近まで、こういう風に書くことをしなかった。
人の身体を信用していなかったと言ってもいい。

けれど現場にいることによって、むしろ台詞の方が邪魔な気がしてきた。

『役者』。すごい奴らである。

* オモテウラ (2001/04/19)

別に昆虫とか星雲とかの名前じゃありません。

さてさて。必ず存在する、一見相反する個人的思想。
『動かしたいし、動かして』
『動かさないで。動かさないから』
【触れたい。触れて。】
【触らないで。触らないから。】
文章や表現の上では、非常に明確に出てくる問題だと思うのです。

多分、私は前者。(←ホントか?)
『動かしたいし、動かしてもらいたい』
『触れたいし、触れてほしい』
さてさて、けれど書いていて疑問に思う。
特に、触れる触れないの点。
待てよ。触れたいけど、実際それは触れられないのと同じ事じゃないのか?
触れて欲しいけど、それは結局他人は入り込めないということじゃないのか?
さてさて、個人的になって分かりにくくなってきましたね。(笑)

つまり、です。
『触れたい』と、臆面もなく言うのは、
結局は触れられないという、安全領域を理解しているからじゃないのか。
動物園でふさふさの毛のライオンを見て、
「かわいい〜!触りた〜〜い!」
と、言えるのは、実際触れないからでしょう。

ライオンと自分の間には、確かに柵がある。
安全を保障するものであり、たてがみを触ることの障害でもある。
安全面に気を配るそこのアナタ。
ちょっと曲がりかけの柵を見て、あなたならこう言うでしょう。
「こっちへ来るなぁっ!別に攻撃したりしないからっ!(泣)」
ふさふさのたてがみにこの上ない魅力を感じるそこのアナタ。
柵があるから安全。さぁ。手を伸ばして。
「おいでおいで!あ、やっぱ届かない。」

でもここで考えましょう。
めっちゃくちゃ頑丈そうな柵を前にしてなお、
「こっちへ来るなぁ!」と言う人は稀でしょうし、
今にも壊れそうなぼろぼろ、がっちゃんがっちゃんの柵を目前にして
「おいでおいで」をやる人もいないでしょう。
問題は柵の強度。

私と貴女の柵。
「触れるな。来るな。話しかけるな。」
そういいながら振り返るのかもしれない。

あたしとあんたの柵。
「おいでよ〜。ほら、髪の毛変になってる」
じゃれ合いながら街を歩くかもしれない。

基準値は100。
70しか通らない穴だったら、手を入れて、のぞき込んで。
残りの30を何とかこちら側まで。
300も通る穴なら、壁を作って。
200から必死で逃れながら、時に壁に手を当てる。
上を見上げて、座り込む。

そして、聞き耳をたてようか。

*本当に正しいこと(2001/04/20)

本当に正しいことは何なのか。
(オモテウラの続きのようなものである)
触れられたくない人がいることを知りながら、私は触れようとする。
それはしばしば、たまらない嫌悪感を招くのだろう。
うーむ。反省。さらに再検討の余地がありそうである。

シンプルに言うと、よけいな手出しはするべきではないのである。
ただ、本当に自分が何者にも触れることが出来ず、
何者も動かすことが出来ないのであれば、
そしてそれを望むくらいなら、やっぱ私は死んだ方がマシである。

ネットでは、私はそこそこ間違っていない『自分のやり方』を通していると思う。
要するに受け身の体制である。
宣伝はする。メールもするかもしれない。
けれどそこには、「ページを見させる」強制力はない。
見るのはあくまで自分の判断である。
まぁ、商品を売るときのように、
「美味しいですよ〜」
「質がいいですよ〜」
と、購買欲をそそるための手だては尽くす。
美味しそうなにおいなんかも漂わせてみたりする。
けれど、お金を払うか払わないかは個人の判断。
そういうことである。
それで「美味しい!」と思わせたり、心を動かしたりしても、
あるいは「損した。」と言わせたり触れられたくない部分に触れたとしても、
それは見た側の責任である。

けれど現実世界では、そうはいかない。
ってゆーか、そんな冷静に論理的に大人でいられるかっ!
なんか部屋に一人で暇で淋しかったりしたら、
相手の迷惑も顧みず電話をすることだってあるし、
感情的な喧嘩なんかしちゃった際には相手の『触れられたくない部分』だの『個人的思想の相違』だのに構ってはいられない。言いたいことだけ、本気で浴びせかける。止める『冷静な自分』が居ないわけではないが、それを振り切ろうとするものだからよけい力が入る。

うーむ。確かに問題である。
けれどこれをクリアしてしまったら、何が残るのか?
全員が冷静で論理的で大人だったら、どうなるのか?
むしろそんな世界あり得るのか?
人間は一つの論理に、一つの言葉に基づいて行動できるのか?

答えは、ここにある。
もしそうなら、私はこんな文章
書いてない。ってばよ。

*嘘だけはつかない(2001/05/03)

どうも、私はすぢがね入りの不器用らしい。
嘘をつくのは、基本的には得意である。と、思っている。
テストがどうしたの、提出物がどうしたの、
そういうことにかけては天下一品。かなりの確率でバレない。

けれど。

思っていることは、どうやらそのまんま出ているらしいのだ。
それこそ見ている人たちが笑いたくなるくらい、正直に。
いや、それでも日常生活ではなんとかなっているかもしれない。
けれど、「書くモノ」となると、もう駄目である。
正直者全開なのだ。

脚本を書いた順番で読み返したりすると、笑えてくる。
私の変遷が、全部入っているのだ。

ちなみに、今書いているのは
『神様、あなたに会いたくなった』。
登場人物は四人だが、三人でも出来る脚本になっている。
一応、部員不足に悩む劇部の新入生歓迎、
文化祭、大会出場etc...用を念頭に置いて書いた。

念頭に置いて書いてはいるのだが、
やっぱり内容は個人的要素たっぷりでお届けしてしまう。
まぁ、まがりなりにも私は脚本書き((まだ)見習い)である。
冗談で脚本を書いているわけではない。
だから、私の持てる力全てを使ってちゃんとしたものに仕上げようとしている。
けれど、結局は個人的体験に基づいている。

私はここでふと思う。
『誰だって、そんなものではないだろうか?』

なにかを創ること。
歌うこと、描くこと、書くこと。
個人の感情無しには、それらはあり得ない。

私は、書くものに対して嘘をつかない。
ありふれた薄っぺらい決まり文句だが、
「自分の心に嘘はつけない」のである。

最近は「ココロ系」なるサイトもたくさんあるようで、
それらはありのままの自分をさらけ出すためにあるらしい。
日記などで悲痛な叫びを聞くこともできる。

けれど世の中にあふれている芝居は、脚本は、小説は、絵は、漫画は、歌は、
全てそれと変わらない。
誰かが昔の恋人に送る一枚の年賀状と、
ベストセラーの分厚い小説は、
もしかしたら同じものなのかもしれないのだ。

はがき一枚など、すぐに捨てられてしまうかもしれない。
けれど皆が面白いという小説なら、もしかしたら読んでもらえるかもしれない。

だから、上へ、上へ、上へ、上へ。

皆が認めてくれたなら、もしかしたらあなたも。

それだけの差なのではないかと思うのである。

恋人への年賀状で嘘をつける人間など、
いない。

*人の心(嘘だけはつかない続編)(2001/05/05 )

演劇集団キャラメルボックスの芝居に、
『広くて素敵な宇宙じゃないか』というものがある。
かなり有名な芝居なので、知っている人も多いかと思う。
60分間の、短いものだ。
ストーリーも、分かりやすさ、スタンダードさ爆発である。
けれど。

「行きましょう。あの子の冬を終わらせるために。」
「母さんが死んだからか。お前の大好きだった母さんが。」
「アンドロイドだって人間だって同じよ。お母さん以外はいらないの。」
「一人で生きてる人間がどこにいるの」

『ごらんなさいよ。広くて素敵な宇宙じゃない。』

この脚本を書いた脚本家の成井豊さんは、「ごらんなさいよ、広くて素敵な宇宙じゃない。」という台詞を初版から一度も変えていないそうである。理由は、「これ以上のものは書けないから」。成井さんはこの台詞を、涙を流しながら書いたという。(「キャラメルミラクル」(守本一夫)より)

「そんな、人と人とのフレアイみたいなこと今更言ったってぇ」
「ファンタスティックすぎ。」
「ベタでありがち」

ならば人を信じず、夢も見ず、自分だけ特別に生きてきたとでも言うのか。

それはきっと、感動しようとしていないだけなのだ。
意固地になって扉を守っている。
当たり前のことだが、
音楽も歌も小説も詩も、もちろん芝居も、
人間が創っているのだ。
個人と個人が出会うことに心が動かないはずがない。
例えば私が新宿の横断歩道で、スーツ姿の男性とすれ違う。
煙草のにおいがする。私はあまり好きではない。
けれどそこで、私が彼の腕を捕まえて、
喫茶店で6時間、嘘偽りなく語り合ったらどうなるのか。

そういうことだと、思うのである。

このHPには、芝居を、何かを創る側の人が多く来て下さっていると思う。
けれど、同時に何かを受け取る側でもあるはずだ。

恋人からの年賀状。
捨てられてしまうかもしれない恐怖におびえながら、
一枚の紙が新聞と広告に埋もれて、あなたを待っている。

手紙が届くというのは
ポストから郵便受けまでの道のりではなくて。
今更、ファンタスティックでベタでありがちかもしれないが、
心から心まで、風が吹き抜けること。
さぁ、窓を開け放て。
お前の心は凪いでいるか。
そよ風旋風、かまいたち。
本当にお前の心は凪いでいるか。

ゆっくりと、
風が吹いてきた。

*私は『クレヨン王国』が書きたかった (2001/05/17)

『クレヨン王国』シリーズをご存じだろうか。
作者は福永令三、青い鳥文庫の童話である。かなり多いシリーズで、30、いやもっとあるのだろうか。

私と同世代の人はこれを読んだことがあるだろう。
なくても、話に聞いたことはあると思う。
確かにこの『クレヨン王国』は名前からして子供向けの童話であり、
長さも大したことはないし、絵だって入っている。
そして、分かりやすいストーリーが描かれている。

けれどそこには都合の良いハッピーエンドは無い。
そしてまた、何が正義であるかも描かれてはいない。
政治的策略、怨恨、死。
幸せなはずの『クレヨン王国』にも、魔界があり、妖怪や悪霊がいる。
そしてその妖怪や悪霊がしていることは『悪』かというと、そうではない。
それぞれにちゃんとした理由があり、正当性のある行動であったり、考えであったりする。
だから、妖怪や悪霊たちから「私たちが間違っていた」という反省の台詞が発せられることはないし、
また、彼らに悪いことをした「人間」も、
(この「人間」には多くの場合子供が選ばれ、彼らは今までの人間の罪の代表である)
その悪いことの結果を見て「間違っていると思う」と言うのみである。
彼らはそれまで「(本当には)知らなかった」のだから。

考えというのは、折れない一本の旗のようである。
一度その旗が燦然と輝くのを見てしまったら、
それは決して折れない、守るべきものになってしまうのだ。
例えその旗が時間とともに古ぼけていっても。
色が変わっても形が変わっても、折れないのだ。

私は小説をほとんど読まない。
その代わりと言ってはなんだが、評論や、岩波新書、PHP文庫、講談社現代新書などを良く読む。
そして、童話。漫画。
あとはネット上の詩、日記。

何故小説を読まないか。多分その理由は、私には難しすぎるからである。
残念ながら、私にはほとんどの小説が面白いとは思えないのである。
せいぜい、「アドヴェント・カレンダー」だが、あれはいちおう子供向け哲学書として書かれているし、
あとは短い、星新一ショートショートである。
私的にはあの「字ぎっしり」がいけないのかなとも思っている。
教科書なんかで短縮版を読む限り、面白いものもある。「山月記」「河童」なんかがそれだ。

私が面白く思えない理由を、私なりに考えてみた。以下が、数分間腕組みした結果である。
『消費されるために書かれている』
気がするのだった。
『どうあっても、これを伝えよう、これだけは生き残らせてみせる』
というのが感じられないのだ。

確かに、「これだけは!」という熱血な主張が馬鹿馬鹿しい時代なのかもしれない。
そしてまた、それを隠すのが、そして売れるものを書くのが「プロの技」というものなのかもしれない。

そう、そうだ。そこが私には難しすぎるのである。
「これだけは!」という熱血が無いのなら、原動力は何なのだろう、と。
思わず考えてしまうのである。
で、考えると、分かるどころかよけい不可解になってくるので、
私は頭ぐるぐるである。

私はきっと、私の旗が燦然と輝いていると信じている。
他人と比較したらみすぼらしいかもしれないが、
精一杯輝かせようと洗濯は怠っていないつもりだ。

旗を立てない潔さがあるとしたら、きっとそれは旗なのだ。
旗を諦めたら、それは旗ではあり得ない。
けれど、旗を諦めるその姿が美しいと信じるならば、その美しさは旗である。

旗とは何であろう?

体育祭が近づいている。頭上で万国旗にお目にかかれる日も遠くはない。

*夢の中の夢の中の、ゆめ? (2001/05/17)

昨日、夢を見た。
正確には、今日だったのかもしれない。

私は、橋のようなところを白い服の女の元へと走っている男だった。
その橋は工場のような無機質な、灰色の建物群の上にかかっており、
手すりはなく、飛び立とうと思えばいつでも舞い落ちる事が出来るものだった。
下の景色は、無限とも思えるほど深かった。
白い服の女は、橋の向こうにいる。
その女の元に着くと、女は大きいシートに2、30錠ほど入った白い錠剤のうち、
一つを私に手渡した。

そして私は橋から飛び降りた。
その錠剤を飲んで飛び降りると、『   』へ行けるのだ。
だから私は迷わず飛び降り、そして消えていった。

地面が冷たい。私はぱちりと目を開けると、どうやら飛び降りた後だ。
コンクリートのすべすべした冷たい地面に、私の頬が押し当てられていた。
私は、錠剤を持った女になっていた。
すぐに立ち上がり、走り出した。
青い空と、少しの木。また、橋が見える。
錠剤を飲み、私は『   』へと飛び降りた。

地面が冷たい。私はぱちりと目を開けると、どうやら飛び降りた後だ。
コンクリートのすべすべした冷たい地面に、私の頬が押し当てられていた。
私は、錠剤を持った女だった。
【  】が追ってくるのを感じた。
すぐに立ち上がり、何かを叫びながら走り出した。
息が上がる。あの橋に行かなければ。
無機質な灰色の建物群の上、あの橋まで上った。
そして、最初、薬をもらった、私であった男と、数人の男が追ってきた。
そうだ。この薬は一種の麻薬なのだ。
彼らはそれを取り締まりに来たのだ。

私は錠剤を飲み、飛び降りた。
助からないと思った。

その中で何故か、私はあの男を愛していたのだと思った。

そして私は目覚めた。学校の下駄箱の前。
友人に夢の話をした。
ふぅんとうなずかれ、友人が言った。
風邪を引いてしまい、薬のせいで眠いと。
薬?私は怪しんだ。
うん。これ。
そう言って差し出されたのは、あの大きいシートだった。

そして私は何処かから何処かまで飛び降りた。

そして私は目覚めた。

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夢、全文である。
印象深かったので、書き残してみた。

*某所原稿より引用、『幸せの絶対値』 (2001/05/24)

生き物として最期の日は必ずやってくる。その日に後悔しないための方法。
毎朝肩に小鳥をとまらせて、こう言うんだ。
 『小鳥さん、今日がその日かい?
  だとすれば、
  私は成すべきことをしているか?
  やりたいことをやっているか?
  なりたい自分になっているか?』
全部にイエスと答えられれば、他に望みなんか無いよ。
                -----『モリー先生との火曜日』より
                        私の感じ取ったこと。

「○○さんが言うことを聞いてくれない」
「親が文句ばかり言う」

あなたは幸せですか?と聞くと、こんな答えが返ってくるかもしれない。けれど違う。そうじゃない。他人はどうでもいい。「あなたは」どうなのか。

他人との関わり合い以外に、幸せの道はないのか。幸せの絶対値。それについて考えてみたいと思う。

人は別に、苦しまなくても幸せになれるはずである。けれど、苦しんでいる人が多すぎる。あまりにも多すぎる。「○○と喧嘩した」にはじまり、「家は嫌。学校は嫌」まで。まるでこの世は地獄絵図のようである。血の海やカマイタチ、赤鬼なんかがこの国にはいっぱい居るらしい。困ったことだ。

さて、話は変わるが、あなたは自分の目以外で雑誌やら漫画やらを読んだことはあるだろうか?「何をバカな」と言われるかもしれない。鼻で読むわけにもいかないし、ましてや他人の目など使えるはずもない。

ただ、これを「あなたは自分以外の視点をもったことがありますか?」と聞くと、「友達の身になって考えた」「相手の立場に立って」と言う言葉が出てくるから面白い。なるほど。努力は出来る。共感もしようと思えば出来るだろう。けれど、あなたがあなたの目以外でものを見られないのと同じように、あなたはあなたの脳細胞以外でものを考えることなど出来ないのである。小説で何種類ものキャラクターを書き分けている人でも、自分の脳以外使っている素材など、使える素材など無いのである。

話を戻そう。どうやらこの日本には、血の海やらカマイタチやら赤鬼なんぞがうじゃうじゃ居るらしいことは述べた。けれどそれらは本当に実在しているのだろうか?それを確かめる術はもちろんない。人の心に見えるモノノケは他人には見えないのである。

と、待てよ?ここで考えてみよう。例えば私が英語の先生を嫌っていたとしよう。ヤツは私にとって、髪を逆立て、小言を言う「サイテイな奴」である。私は彼に対して、いつも警戒を怠らない。きびだんごで仲間を従え、剣を持って攻撃を仕掛ける。当然である。ヤツは鬼なんだから。

でも、他の人には彼は「英語の先生」に見えている。別に鬼でも何でもない。彼らから見たら、私はよっぽどバカに見えるだろう。何で「英語の先生」に対してあそこまでビビって、仲間まで従えてたてつくのか不可解なはずだ。他人から見たら不可解な行動なのに、やってる私は本気だったりするからなおさら滑稽だろう。

同じように考えると、こんな事が分かる。そう、目の前に見えている不幸は、実在しないかもしれないのだ。いやむしろ、実在するのかしないのかを決めるのは自分なのだ。それは不幸も、幸せも、友情も、恋愛も、疑いも信頼もみーんなそうなのだ。白を黒だと言い張ることだって、人間ののどの構造と言語能力があれば難しくはないのだ。「く・ろ・で・す」四音の発音だけで出来る。簡単なことだ。

常に笑っていることだって出来る。あなたの顔には表情を出す筋肉がついているのだから。同じ理由で、常に泣いていることも出来る。

どちらがいいのか?

ちなみに私はどっちもごめんである。私に表情筋がある限り、私は毎日を笑って泣いて、時には怒って過ごしたいと思っている。そして肩に小鳥を止まらせて、『yes』と言えたら、本当に何も言うことはない。

あなたの全てを決めることの出来るあなたへ。
あなたの小鳥を肩にとまらせて、聞いてみて欲しい。
そして、嘘でもいいから『yes』とつぶやいてみるといい。
次の瞬間には小鳥は羽ばたいて、どこかへ行ってしまって。
その後に何が始まるのかは、やっぱりあなたが決める。

だまされたと思って試す価値は大いにある。
肩に小鳥をとまらせながら、
少なくとも『私は』そう思っている。

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モリー先生との火曜日
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30449766

*芝居をやる根本について。忘れないで。(2001/06/21)

まずは、私の友人のページ『YAMANEYAMANE』の中にあるBlueWings活動記を見ていただきたい。

この、BlueWingsというのは私の学校内の同好会で、一昨年は紙飛行機の展示、去年は飛行船を共同製作していた。要するに「空を飛ぶ」関係のことを二年にわたってやってきたのだ。

そして今年、彼女たちは芝居で空を飛ぶことになった。

彼女たちは芝居をやっている人たちではない。ごくごく普通の、卓球部と美術部の方々である。技術的には、ここに来ている皆様方よりもちろん劣るだろう。

けれどこの活動記を読んで、考えてもらいたい。
本当に、自分たちの方が「いい芝居」をやっているのか?と。
台本決め→読み→半立ち→立ち→リハ→本番→台本決め→読み→半立ち・・・・
そんな流れの中にいる私たちは、地上でくすぶっている気がする。

あんな風に練習をしたのは、いつだっただろう。
空を飛びたいと思ったのは、いつだっただろう。

もう一回、旅に出ようと思った。

*全国の「ニンゲンカンケイ」でお悩みの皆様。(2001/06/21)

口論。

不安定。

いっぱいいっぱい。

泣き。

食い違い。

諦め。

でも諦めてないから陰口。

でもって陰口。

また陰口。

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.

.
(笑)。

一笑に付す。
それぞ芝居。

てなわけで。面白い案を考えついたわけです。

『シノサカくんとマチコさん』

私を嫌う人たちよ。思い知るがいい。
必ず笑わせてみせるッ!この芝居でっ!

人間、顔見合わせて笑っちゃえば大抵のことは吹っ飛びます。
一瞬。一瞬でいい。ベルリンの壁が0.01秒瞬間移動してくれたら、
誰も彼もがまっすぐに飛び込んで行ける。

残念ながら嫌われやすいタチなので、
お返しに笑わせます。
ベルリンの壁ぶっ壊し委員会。

人生いいこと悪いこと。
一笑に付すべし!!

*グラサン男のぱっとしない生活。 (2001/06/21)

サングラスをかけ、陽の光を感じにくくなっている今日この頃。

「俺さぁ、なんか暗いんだ〜」
「テメェがグラサンかけてっからだろっ!」

何という当たり前の話か。
これがせめて可愛らしい女の子だったりして、

「あたし、最近辛いんですぅ。」

とかだったりしたらまぁ冗談で肩ぐらい抱いてもいいのだが、
残念。こちら西瓜すいか、女は女でも老け顔である。
人に言わせりゃ56歳。ホントかよ。

よって、

「グラサン取れよ」

あたりがオチ。
しかし、この特別製グラサン、実は粘着テープ付き。しかも強力。
特別な薬品を製造しなければはがせないっ!
どうするっ!どうするんだっ!?

そこで助けてくれるのが我らが大黒屋英介。(SmallWorld)
私の作った最高で爆笑の科学者。
むしろこれは『自助論』(スマイルズ)。

今のところは、絶対的に見える「少女」(夢見せ)よりも、頼れそうな美紀(秋空)よりも、頑張ってる光一くん(COFFEE)よりも、彼が、そして東小五郎(私の電車〜)が役に立つ。

笑いは人を救える。
必ず救える。

最近どうやらシリアス傾向に走りがちな私だが、
その反動か、今、笑いがアツい。

医学にも認められている効果、「笑い」。
大黒屋英介、そして東小五郎には、
これから数ヶ月、作者である私との同棲生活を楽しんでもらいたい。

まずは自分がモルモットだ。
最高科学者大黒屋が作り出した薬品、
どこまで使えるモノになるのか、お楽しみである。

*誰かを捨てるのか? (2001/06/22)

彼らの幸せがある。

喧嘩でもしたのだろうか?擦り傷、切り傷、アザ。
そしてそれには絆創膏が貼ってある。
互いに貼りあったのだそうだ。

それが上品なプレゼントボックスの中、僕に手渡された。

「ごめんなさい」

それが僕の返事だった。

僕の幸せがある。

ひとりひとりはカプセルに入り、呼吸していた。
ある日僕は桜の香りを感じた。
僕は必死で世界を削り出し、コスモスの香りを返した。

僕は僕の作った香を、和紙に包んで手渡した。

「ごめんなさい」

それが彼女の答えだった。

彼らの幸せがある。

彼女は僕に、プレゼントボックスを差し出した。
僕は彼女に、からっぽの和紙を手渡した。

「愛してるわ」

それが僕の聞いた空耳だった。

「愛してるよ」

それが僕の言った空耳だった。

『またね』
『(さよなら?)』

声と空耳は同時に聞こえた。

「またね」

僕は空耳を言い直した。

会える。必ず会える。
一生の触れ合いを私は信じていないから、
一生の別れを私は信じない。

おもてうらのほんとうにただしいこと。

ランダムな曲線を歩き続けるのだから、
いつか、会える。

きっとまた。

『またね。』

*構想「五百回目のラブレター」 (2001/08/06)

ちょっと奮闘記をお休みしていました。
最近、コラム的なものより、本業(?)の脚本の構想の方がたくさん出てきます。
なので、ちょっと自分なりに構想をまとめるためにも、
そして更新をちゃんとすると言う意味でも、
構想を書かせていただきます。

*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*

『五百回目のラブレター』

ある男がいた。
好色で、いっつも浮気ばかりしている。
本人に悪気はないから、
そんなに嫌な印象もないのだが、
まぁ、「浮気者」と言えば
街では通じた。

いつも通り手帳の中を見つめては、
「絵里子ちゃんに、、、潤子ちゃんに、、、」と、
女の子の名前を幸せそうにチェックしていたが、
いつもと違ったのは------------

ガシャン!

トラックが彼を跳ね飛ばした。
そして彼の時間は止まった。

移り気な彼は、
時間とともに女の子を渡り歩いていた。
時間が止まった、今。
彼は、たった1人に恋をした。

*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*

これは、私が「ベタベタ芝居」を書きたいが故に考えた構想です。
けれど、単にベタベタじゃあつまんない。
ってゆーか、嘘っぽい。

炎を燃やし続けることは、本当に難しい。
時間は流れて行くから。

なら、時間が止まればいい。

「何年後、なんて約束できないわ!
 これからあたしに何が起こるかなんて、誰にも分からないんだもの!」

「僕は約束するよ。何年後だって構わない。
 だって、僕は死んでるんだから!」

彼は彼女だけに見えた。
彼女の瞳が彼を見つめられなくなっても、
彼はそこに留まっていた。

「約束する。僕は君だけの神様になる!」
「なにそれ。バッカじゃないの?流行らない台詞。」
「関係ないさ!僕は死んでるんだから!」

時間は止まらない。
炎は消える。

必ず。

けど劇場は
みんな嘘。
消えない炎があればいい。

*つばさ? (2001/09/03)


     朝起きたら
    翼が生えていた

『は?』

反応なんてそんなもんだろう。
こんな夢を見る者は誰もいないのに

『私に翼があったらいいのに』

そんな詩的な表現は
そうまるで大量生産される
流行の缶バッヂみたいに
からからと音を鳴らし続ける

鎖で縛られるSMプレイ
そんな体験はそうそうしてないくせに

『がんじがらめになったみたいで』

笑わせんなよ。
言葉で一生自己陶酔
独りでヤってろバカヤロウ。

さぁ目を閉じろ
文字を忘れて
言葉を忘れて
耳の感覚を研ぎ澄まし
肌で風を感じる

お前の周りにはそれしかないんだ
愛しい物質界にはそれしかないんだ。

ほら、お前の敵なんていなかっただろう?
ほら、お前の味方なんていなかっただろう?

清浄な理想郷など存在しない
ここは汚くなかった
逃げ出す意味もなくなった

もう走らなくていい。

そうだ。

一万円札を持って街へ出かけようか
とびっきり履き心地のいい靴を買おうか。

何のためかって?

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ごめんなさい。当分の間、書き殴り形式にします。
芝居のこととは関係ないように思われるかもしれませんが、
だんだんとまとまってくると思います。

コラムになるまで、少々お待ちください。

*『よしなしごと』(2001/09/03)

『   』様。

 私は手紙を出しました。一体誰に出した手紙なのか、分からずじまいなのですが、とにかく手紙を出してみました。

 その手紙というのはつまりあなたが手にしているこれなわけで、今わたしはこれが一体誰に届いたのか、思いを巡らしているところです。

 まあしかし、インターネットなどと言うものを日常的に使っていると、こんなことは珍しくもありません。私がただひとりに届けばいいと思っていたものまで、平気な顔をして外を歩いていくので、まったく、困ってしまいます。

 けれどこの手紙は今の話とは少し違うような気がしています。誰に届くか分からないところは確かに同じかもしれませんが、決定的な差がありますね。私自身、この手紙を誰に向かって書いているのか、全く分からないままなのですから。

 私が前に一度だけお話しさせていただいた『   』さんでしょうか?それともいつもノートを見せてくれる『   』さんでしょうか?夜中に電話をしたこともある『   』さんでしょうか?本当に、全く心当たりがないのです。

 ならどうしてこんな手紙を書いているのかというと、それも私自身全く分からないのです。一体何故なんでしょうね。

 そうそう、手紙ですから、何か近況をお伝えした方が宜しいでしょうか。
 最近私はさほど深く考えることもなく、平和な毎日を送っています。まあ、それぞれの日にそれぞれの良さ悪さがありますから、何も感じないと言うことはありませんが、誰もが感じる、ありふれたものでしょう。まあ、毎日をのらりくらりと過ごしています。

 最近アリの巣を見かけましたが、あれは面白いですね。新宿なんかに行くと、あれとそっくり同じ光景が見られます。新宿の方が多少彩りがあるような気もしないわけではないですが、あの黒い集団がわさわさと隊列を組みながら歩いていくさまは、拡大コピーされたアリを思い起こさせます。

 そして、学校。こちらの方が近いかもしれませんね。全員が全員真っ黒ですから。特に女子校などは似通った部分が大いにあると感じます。働きアリというのは、どれもみんな雌らしいですね。そしてその中で特別な栄養を与えられ生まれたものだけが女王アリになれるそうです。こればっかりは運なのでしょうね。

 運と言えば、先日とある神社でおみくじを引きました。三人でおみくじを引いたのですが、三人が三人とも大吉でした。これはよほど運がいいことなのでしょうか?それとも大吉しか入っていなかったのでしょうか。名目は「恋愛おみくじ」でしたから、もしかしたら神主さんが二人連れのことを考慮して大吉ばかり入れたのかもしれませんね。

 そういえばその、一緒におみくじを引いた人々と、早く一人暮らしがしたいというような話をしました。私はさほど強く一人暮らしを望んでいるわけではないですが、彼らの話を聞いているとそれも楽しそうだなという気になりまして、いろいろ想像して楽しんだのです。そのことについてお話ししましょう。

 まず、狭くてもいいから、風通しのいい部屋がいいというような話をしました。ごく最近部屋に、人間様の食器を勝手にかぶる不届きな黒い虫を発見したせいもあり、私はそれに心から同意しました。

 そして、食器をあつめるのも楽しそうだということになり、街の雑貨屋で見つけたものから、高級品まで、なにがいい、いやこちらの方がと話が及んだのです。

 今私は誰にこの手紙が届いているのか分かりませんが、もし私がどこかにひとりで暮らす際には、ワイルドベリーの食器一式、それがなければ割れた皿でも構いません、お譲りいただければと思います。

 だんだんと、読んでいてお疲れのことと思います。けれど宛先の分からない手紙を出すときには二千字以上書くのが礼儀だとどなたかから聞いた気がするので、読み手書き手双方少々疲れながらですが、このままあと少しおつきあいいただければと思います。

 しかし、読み手が誰だか分からない手紙というのは難しいものですね。誰かに宛てた手紙を、誰に見られてもいいように少しだけ書き換えるのは容易なのですが、『   』さんに宛てた手紙を書くのは全くはじめてのことで、一体どこから書けばいいのやら、そしてどこまで書いていいのやら、見当も付きません。

 おっと、ここで五枚。これで二千字でしょうか?

 私はそろそろ終わりにしようと思います。早々に引き上げること、どうか礼儀知らずと思わないでください、『   』さん。これから私はあの人に宛てた手紙を書く予定です。そのあの人の中に『   』さんが入っているかもしれませんから。そちらの手紙はこんな読んで良いことも悪いこともないようなものではなく、たったひとりに宛てた、読んでいて心が動くようなものにすることをお約束いたします。

 『   』様、こんな手紙にお付き合いいただきありがとうございました。これでおしまいでしょうか?それとも私が、あなたただひとりに手紙を書く日がこれから来るのでしょうか?

 私はこのごろ、こんな事ばかり思っているのです。答えは出ませんが、ともあれ、身体にはお気をつけください。

二〇〇一年八月二十一日

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これは、学校の課題の作文賞用の文章です。
ただ、先生が読むためだけに、書く。
ただ、審査されるために、書く。

「このごろ思うこと」

というのが、課題でした。
一体誰が、誰に読まれるかもわからないものに、
誰に読ませるのかも自分で分かっていないものに、
本当に今真剣に考えていることなどを書けるというのでしょう?

それを、古文の堤中納言物語「よしなしごと」にかけて書いてみました。

「私なんてこんなつまらないことしか考えていませんよ。
 大切な事なんて貴方に言えるわけないでしょう?」

そう言う文章です。^_^;

* さようなら「ジパングあさ6」(2001/10/01)

つい先日、「ズームイン!朝」の前の番組が、
「ズームイン!朝」の拡張のため、終わりを迎えました。
この番組の最後には、占いコーナーがあり、
アナウンサーの方が毎回、星座ごとの細かいラッキーカラーやらなんやらを読み上げます。

それが。
最終回。アナウンサーの方の声は涙声でした。
これは、普通から言えばとんでもないことなわけで。
聞き取れないような声でアナウンスしてもしょうがないわけです。
もちろん、職業人としては失格でしょう。
けれど。
この「予想外のアクシデント」が、思わぬ感動でした。少なくとも私にとっては。
ほとんどの人が、
「こいつ、だめじゃん」
とは、思わなかったはずです。

じゃぁ、舞台はどうなんだろう。
私は前に劇団四季の「夢から醒めた夢」を二回見ましたが、
確かに劇も好きだけれど、感動したのは最後の、観客の拍手でした。
会場が総立ち。カーテンコールは十一回。
その偶然に、その場で作られた雰囲気に、私は感動しました。

私は、「作品そのもの」に感動した記憶がありません。
それを書いたときの、思いついたときの、作者の感覚を考えて
それに感動する人間です。

だからこそ。
「素晴らしい芝居」に人が「感動」するとはとても思えない。
人が感動するのは「素晴らしい作品」だったり「素晴らしい演技」だったりするのではなくて、
それらを作るまでの「人間」の動きであったり、
それを思いついたときの感情であったりするのではないかと思うのです。

* たとえ電子空間だけの出会いだとしても。(2001/10/29)

逢えて良かった、そう想いました。

それは、今年の三月に、「夢を見せる機械」をやり遂げてくれたひと。
今はきっとお忙しいでしょうが、
いつか貴方がここを見て下さればいいなと思っています。

高校二年。
勉強とか勉強とかの余波が、あと、急激な視力の悪化が、
私をパソコン、ネット、そしてそれらを使って書く脚本から遠ざけていました。
もちろん、頭からはけして離れないんです。
『第四期』のことは。
シーンのOPはどうしよう、ここでの展開は、転換はどうするべきか、絶えず考えています。
けれど、まとまらない。
新しい案は10も20も出ています。
こちらも絶えることはありません。
けれど、書けない。
目が痛い、頭が痛いんですね。画面を見るだけで。
冷静に考えると、ちょっとした神経症なども混ざっていたのではと思います。

創ることから遠ざかると、やはり気分が悪いモノです。
けれど、勉強やらなにやらもやらないと、気分悪いんですね。自分。
、、、、、受験だし。(爆)
周りも似たような状況らしく、「頑張って」「頑張ろうね」の嵐。
もちろんその言葉がいけない訳じゃないんですが、
誰か輝けっちゅーねん。
ってゆーか私、やりたいことやれってば。
輝いている人、伝え続けている人を見るのがいちばん元気が出ます。

そして、冒頭に述べた貴方、葉月さん。
書き続けていたひと。
もしあなたが居なかったら、なんだかなし崩しに脚本書き一時休戦してたかもしれません。
むしろ、平和協定を結んじゃったかもしれません。

上で会いましょう。
貴女に逢える日を、本当に望んでいます。

『 第 四 期 』を化学にまみれつつ、
書き殴ろうと思います。

*ありのままの描写(2001/10/31)


俳句などでよく言われることであるが、「ありのままの描写」。
なかなか難しいことでもある。
こんな事を考えたのは、漫画『GTO』の今週号の中に、みごとな「ありのままの描写」があったためだ。

教師を憎むクラス。それは、生徒のひとりに前担任が性的いたずらをしたことから始まっていた。正確には、いたずらをしたという「噂」からだった。本当は嘘だった。前担任を少し恋心混じりに慕っていた女子生徒が、担任には婚約者がいたことを知り、衝動的に自分からその噂を流してしまったのだ。けれど、それがきっかけでクラスは崩壊してしまった。

それに責任を感じ続けた彼女は、「自分はここにいてはいけない」と感じる。じぶんの嘘を告白した後の騒動の中、彼女は事故で屋上から転落してしまう。そして、病院。彼女は目覚めた。そして--------。

この直後の描写である。何のことはないワンシーンだ。そのまま、「・・・ありがとう」とか、「うれしい」とか、登場人物の感動を表す台詞があるわけでもない。そのままだ。点描やフラッシュで飾ってあるわけでもない。本当に、そのまま風景を書いただけのシーンなのだ。

興味のある方は、是非読んでみると良い。
あらすじ紹介が下手で申し訳ないのだが、この作品を知っている方は、もっとありのままに「感じられる」と思う。

ありのままに。
『第四期』のOP構成を見直した。

*あなたが生きているということ (書き下ろし)

月並みな話だが、
「ありがとう」
「嬉しい」
「楽しい」
そんな風に言われると、うれしい。
それも、ただ言われるのよりも、
自分が考えて考え抜いたプレゼントに対してであったり、作品に対してであったりしたときに特に嬉しい。

自分が走り抜けたことが、そしてそれが誰かの走るエネルギーになったことが嬉しい。

脚本を書いたときも嬉しいことは嬉しいのだが、
芝居をやった後は格別である。
(ただし、納得のいく芝居に限るが^_^;)
脚本を書いても、喜ぶのはほぼ自分だけだが、
芝居は、目の前で人の表情が変わるのが分かる。
そしてそこから、誰かが何かに向かって歩き始める。

誰かの原動力になるためには、別にレベルの高い芝居をやる必要はない。
「がんばっている」姿が人の助けになることもあるし、
「下手な」姿が反面教師になることもある。
「ハイレベル」が向上心をあおることもあるし、
「大失敗」が笑いを生むこともある。
また、人によっては
「がんばっている」が下らなく
「下手な」にやる気をそがれ
「ハイレベル」が鼻につき
「大失敗」が蔑視を生むこともある。

「大失敗」から生まれた笑いが楽しい会話を生むこともあれば、
その笑いが趣味の合わない恋人の別れを生むかもしれない。
「がんばっている」から生まれた不快感が、そこから反面教師になることもあれば、
「ハイレベル」への嫉妬が仲間を失うことにもつながるかもしれない。

息を吸った。同じ空気を吸っているのに吐き気がすると言われた。
息を吐いた。少し漏れる吐息の音が綺麗だと言われた。
かたく手を握った。指先の怪我に手が当たり、痛いと言われた。
その後に微笑まれて、離さないでと言われた。

私は、何をしているのだろう?

今日も明日も、人の心に感動を与える「舞台」は続いている。